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2011年02月03日

大分県人の大友宗麟への関心度

大分県人の人が、もっと大友宗麟を誇りに

思えるようになって欲しい。

大友家遺跡の正式な発掘調査が始まって

約10年の月日が経とうとしている。

熊本なら加藤清正、福岡なら黒田孝高、長政親子

熊本城や水前寺公園、福岡城跡や大濠公園、

大分と比べられる佐賀でさえ鍋島直茂や唐津や伊万里焼

などが有名である。

何故、豊後、豊前、肥後、肥前、筑前、筑後全部所領だった

大友宗麟がそれほど有名ではないの?

薩摩から府内の町を焼かれ、蹂躙されたからなのかなあ

他県の人に聞いても、きっとザビエルというお菓子は知っていても

大友宗麟はお菓子よりも有名でないかも知れません。

大分の人からも偉業が忘れ去られていく

大友宗麟が今のお父さんたちとリンクしそうで空しくなります。

かくいう、自分もそうであります。

昔は強く、偉かったお父さん、定年退職して、家でゴロゴロ

お母さんや子供たちからは邪魔にされ、

お前たちの為に一生懸命働いたと言えば、

仕事しかすることが無かったんじゃないの

と言われるお父さん、

お金はないけど何かやりたいお父さんは、

大友宗麟関係のボランティア団体たくさんあります。

大友氏遺跡跡をみんなで大友遺跡公園博物館

にでもしてみませんか!

日曜だけでもサークルあると思います。

大友宗麟の時代、府内の町が

堺に匹敵する貿易港だったことは

忘れないでください。

日本一の港で象や南蛮人が歩いていたのですよ。

大友歴史保存会が大分合同新聞で取り上げられました
http://www.oita-press.co.jp/localNews/2011_129669353777.html  


Posted by アイキュウ at 00:44Comments(0)

2011年01月31日

大友宗麟鉄砲隊長情報

大友宗麟鉄砲隊 隊長よりの情報です。

1543年種子島に鉄砲伝来です。

大友宗麟の鉄砲に関する情報です。

大友宗麟は1553年と1556 年に将軍に南蛮砲を献上しており

1559年には豊後国産の鉄砲を献上しています。

1564年毛利軍との戦いでは

15,000人の軍勢で1200丁の鉄砲を使い戦をしています。

長篠の戦より6年も前の事です。(織田軍35,000人の軍勢の内3,000丁の鉄砲使用)

大友が1559年に組織的に鉄砲を製作したとしたら

1564年までには毎年200丁以上を作った事になります。

日本初の大砲国崩しや軍艦からの艦砲射撃など鉄砲に関しては

西の大友、東の織田といわれる進んだ考えを持った戦国武将でした。

織田信長に大砲を贈り「鬼月毛」と言う名馬を贈られています。

当時の最高実力者、織田信長との関係を重視して政治を行っています。

九州では最新の情報収集力に優れ、

バランス感覚に優れ外交を得意とした武将です。  


Posted by アイキュウ at 19:25Comments(0)

2011年01月20日

大友家の歴史

まずは、大友家の系図は

http://homepage2.nifty.com/mai-hp/keizu-otomo.htm

で見てください。

大友氏館跡(上原館)は上野が丘方面にいけば

見ることができます。


大友氏館跡




大友氏館跡(旧府内)は
http://zeno.web.infoseek.co.jp/10paotomo/iseki.html大友氏館跡
この貼り付けは大友氏遺跡体験学習館(大分市)が
作ったビデオで非常にいいです。



大友遺跡発掘現場





1550年ごろの府内はポルトガルの香り

象が歩いていたんですよ

博多港も大友宗麟が管理していました。

大阪の堺の街とほぼ同規模だったそうです。

大友宗麟が22歳の頃ザビエルも来ました。



瓜生島伝説


沖の浜では、明船の積み下ろしも

行われていたんでしょうね。

1570年過ぎにはポルトガル船も着いてたみたいです


 
貿易港跡記念碑 勢家町






大分にはポルトガル人がが1500年代中頃から

来ていました。

鉄砲が種子島に伝来したのが1542年ですが、

なんと、2年後の1544年にはポルトガル人より、

大友家に鉄砲が献上されていました。

最初に種子島恵時親子が2丁の鉄砲を

今の相場で1丁 5千万円で買ったそうです。

それが、1575年の長篠の戦いでは3千丁、

1600年 関ヶ原の戦いでは5万丁、

関ヶ原

当時日本の有する鉄砲の数は世界の半数を所有していたそうです。

鉄砲と言えば、堺が有名です、大友でも作ったはずなのに

なぜ、耳川の戦いに負けたのか、

やはり、貿易に頼りすぎたのか?




キャラック船




鉄砲保有量も、マニラからの焔硝の買い付け量から行くと

120丁しか持たないことになるが、これも少なすぎる。

鉄砲の威力を速く知りながら、取り入れなかったのは、

大友宗麟の軍略化としての才能はあるが、

兵法家としての才能のなさだろうか?




1500年代には、大分には府内病院がありました。

有名な医師ルイス・アルメイダが1557年私財をなげうって、

内科、外科、ハンセン氏病科の病院と当時、間引きを救うため

乳児院を開いた。



ルイス・アルメイダの像



すごいことです、この時代に外科手術も行っていたなんて。

1560年アルメイダ達のもとに、

欧州イエズス会より

「聖職者の地位にあるものは、人間の生命に関わる医療技術、

生死の判決にかかわる裁判官の職についてはならぬ」

という「医療禁令」が届く。

アルメイダをはじめとするイエズス会士は、病院から一切の手を引き、

九州一円や畿内を中心とした布教活動に専念。

日本人医療従事者へと引き継がれたが、財政難などもあり衰退の一途。

1587年、島津軍により焼失






ガレオン船




近代化できなかった宗麟の甘さであろうか?





ポルトガル船は何故日本を目指したのでしょう
最初は琉球王国との交易を望みましたが、
琉球王国は、ポルトガルが、マラッカを占有したのを
警戒し断わりました。



マラッカ王国


1511年ポルトガルはインド総督アマフォンソ・デ・アルブケルケは、
18隻の艦隊と800名のポルトガル人を率いてマラッカ征服

日本の金や銀が目的だったみたいです。
何しろ、黄金の国  ジパング ですものね。

日本の黄金伝説は、奥州平泉の金色堂が十三湊経由で
中国に伝わり、マルコポーロへと伝わっていったようですね。
1500年代は、本当に大航海時代だったのですね。

しかし、この時代は、征服という行為が当然のごとく
行われていて、悲しい歴史も世界中で起こっております。

府内にポルトガル船が着始めたのが1500年代中頃からで、
ちょうどこの頃です。



大友宗麟ネタも入っています
http://aiqu.junglekouen.com/

  


Posted by アイキュウ at 13:14Comments(0)